東北太平記

今日も丸一日、資料整理。不要なものは捨てることに。
2日でゴミ袋4つ。だいぶ片付いた。思わず手が止まる資料整理。
そういえば「えんぺ大賞」というのもネット黎明期にあった。1997年の登録ステージ数1274!
1年でこんな舞台があったんだ!!

羽仁五郎さんはものを「過去と未来」に分けて、「未来に必要ないものはドンドン捨てる」と言ってた。
1976年、東大自主講座「公害原論」の記念イベント。荒畑寒村、松本清張、羽仁五郎の三方が連日、講演を行った。
<きょうの写真>
 ミステリー小説的には、スクラップブックの切り抜きの裏側に秘密が隠されていた、という展開だろうけど、裏はゴッドファーザーだった。
1991年、湾岸戦争のとき、流山児祥氏が反戦演劇人の会を結成し、渋谷で自衛隊派遣反対のデモを行った。偶然通りかかった"死神博士"天本英世氏が「日本の演劇人も捨てたもんじゃないね」と集会に加わりアピール、一緒にデモの隊列に加わった。
 今、文化・芸術を蔑ろにする安倍政権の傲慢には演劇人による巨大デモも有効だろうけど、コロナに阻まれそれもできないとは悪運の強い安倍晋三。


<今日の一冊>
「東北太平記」(国書刊行会)

 室町時代中期におきた下北半島の戦乱(蠣崎蔵人の乱)を記した軍記物語で作者は福士長俊。

 江戸時代初期に成立。『北部御陣日記』『田名部御陣日記』とも呼ばれる。

 蠣崎蔵人の乱(かきざきくろうどのらん)とは、室町時代、下北半島、宇曽利郷田名部の蠣崎城主・蠣崎蔵人信純による南部氏に対する反乱。別称 田名部乱。

 良伊王は後醍醐天皇の第三皇子といわれる護良親王の皇子。つまり後醍醐天皇の孫。良伊王は正平3年(1348年)、蝦夷地を管する北部王に任ぜられる。南北朝合一後も足利氏に下らず南朝恢復を志したが、5代目義純に至り上洛して将軍足利義量に謁し従五位上民部大輔に任官した。しかし、重臣蠣崎蔵人信純の陰謀にかかり、王族一統が殺害された。その騒動は南部(八戸)政経が平定した。

 南北朝時代に下北半島に後醍醐天皇の末裔が流れ、その王家の正統性をめぐって戦乱が起きたわけだ。

 資料性には乏しいが、偽書ではないだろう。

https://syory159sp.seesaa.net/article/a20445790.html

 八戸と三戸南部氏の連合軍による反撃により首謀者である蠣崎蔵人は蝦夷地(北海道)に逃れ、松前藩の始祖となったというのは史実。

 南北朝時代については戦前はタブーであった。

 大逆事件の秘密裁判で幸徳秋水は「今の天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言。これが外部へ漏れ、南北朝正閏論が起こった。

 言うまでもなく、今の天皇家は北朝。

 それは置いといて、「東北太平記」に登場する「奥戸貴(喜)太夫」という人物に興味をひかれた。

 1457年、蠣崎討伐のため、八戸根城の奇襲軍を乗せた船団は、下北半島の波多湊(現在の大畑港)を目指し出陣した。 そして、中央の総大将・南部政経の軍船には、根城南部家累代の重宝「後醍醐帝竜筆御名前付き菊の御紋章の加わった日蓮上人真筆の光明点御題目の大幡」、さらに日月の御紋の付いた錦の御旗一双等々、それぞれの船に旗・幟を掲げた、総兵一千七百十五人、馬百八十八頭の陣容であった。 しかし突然の大嵐に見舞われる。

 大将政経は船中に祭壇を設け、田名部天神への祈願祈祷をしたが、一向に収まらない。

 海浮山仏浜寺の和尚は率先して、今まで打ち鳴らしていた寺宝の鉦を、荒れ狂う海へと投げ入れ、重臣橘豊後守行季も秘蔵の短刀を海に投げ入れ、天に向かって叫んだ。

「諸天の善神、八大竜王よ。朝敵蠣崎蔵人の退治に向かう我々を見捨て、朝敵の加護に回られるか、さもなければ、この荒れ狂う海をどうか、鎮め給え」

 この願いが届いたか、嵐は止み、一艘の船も失うことなく、船団は見知らぬ浜辺に打ち寄せられていた。

 出迎えに来た者はかねてより根城南部家に心を寄せる奥戸を支配地とする豪族「奥戸喜(貴)太夫(おこっぺ・きだゆう)」とその一族の者だった。
 大畑を目指した船団は大間を越え、奥戸にたどり着いたのだ。

「我等は、この辺の地理には明るく、蠣崎の錦帯城を攻めるなら、むしろ波多湊に上陸するより、ここ奥戸の方が最適かと存じます、この裏の間道伝いに山を越せば錦帯城の裏手に出られます、その大嵐こそ神のご加護かと思われます。

 いったんは明朝に作戦行動開始の決定をしたが、血気盛んな数名の若侍たちはこれを不服として休養する間もなく出発した。彼らを見殺しにするわけにはいかず全軍が出発。

 後方から攻め入ることを想定していなかった蠣崎の錦帯城は奇襲により混乱、南部本体も合流し大攻勢。蠣崎蔵人は抜け穴をとおって九艘泊(くそうどまり)に逃走。そこから船で北海道に渡った。

 蠣崎壊滅の殊勲ともいうべき奥戸喜太夫だが、その名前は「東北太平記」の中に記述があるだけ。道案内をした奥戸庄二右衛門の名も地元でも資料は残っていない。「東北太平記」に資料性が乏しいといわれる由縁だ。

 室町時代、富裕の地であった我が村、奥戸。奥戸喜貴太夫という人物の存在が架空であっても何とはなしに嬉しい。「下北は何もない不毛の地」とは言わせない。

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